将来の夢
2020.07.12
嘘です。
野球は父親と兄弟の影響で必然的に始めていました。ところが走ることが好きであった私は動きの少ない野球にどうしても馴染めず、平行して始めていた小学校の部活のサッカーやバスケに熱中していた時期がありました。バスケに関しては4年生の時から6年生に交じり試合に出ていたほどでした。ところが試合が日曜日となるとどうしても野球とかぶり参加ができず、また当時少年野球でキャプテンであったこともあり父親の協力・・・というか理解を得られず野球しかやらせてもらえなかったというのが正直なところです。中学に上がるとたくさんの部活がありましたが、中学からサッカーやバスケは元より卓球や軟式テニス等々を始めても小学校からやってきた選手には追いつけないという極めて冷静というか冷めた考えがこの頃には既にあり、自分には野球しかないと考えその後も中学高校と続け、野球で大学に入る夢が叶わず大学浪人を機に野球への本格的な取り組みは終了しました。
ここまでの記事をみると幼少期はスポーツ少年であったと思われるかと思いますが、実は夢として持つことすら許されなかった本当の夢がありました。自分が本当に憧れてなりたかったものそれは・・・
リーリンチェン(ジェットリー)
小2ぐらいの時であったか・・・ブルースリーやジャッキーチェンやその他の武道ではなく「少林寺」リーリンチェンになりたかったのです。映画館でみた衝撃的すぎるほど格好良かった「リーリンチェンになる」と心に決め母親に少林寺を始めることを懇願した記憶があります。その時は母親の「小学校で使うからダメ」に一蹴されました。
そして次に私が憧れたもの・・・それは
巨摩郡(こまぐん)
少6のころでした。会長の世代で小学生でこの「バリバリ伝説」を読んでいた人間は皆無。兄がバイク好きの友達から借りてきた漫画でしたがとても衝撃を受けました。今尚心に残る「自身のバイブル」的な漫画です。当時父親がヤマハに勤めていたこともあり父親に「バイクのレーサーになりたい」と言うとサッカーやバスケの掛け持ちには反対していた父親が少し嬉しそうだったのを覚えています。そして父親が「お母さんに聞いてみな、お母さんがいいって言ったらいいよ」と言ってくれたためとても浮かれてはしゃいだことをよく覚えています。しかしその時なぜ父親が快く「いいよ」と言ってくれたかの意味が直後に分かりました。当時期待満々で母親の元にいき「お母さんバイ・・・」その刹那「バイクは絶対ダメ」結婚前に父親がバイクで大事故を起こしておりそのトラウマで母親からはその後も「バイクだけは絶対にダメ」と兄弟揃って厳しく言われ続けたのでした。父親の「いいよ」はそんな母親の思いを知った上でのフリだったのでした。
そして同時期に現れたスーパースターが
マイクタイソン
この夢が儚く散ったのは言うまでもありません。
かくして私は青春期を野球に捧げたのでしたが、思い返すと幼少期の気持ちは個人競技に傾倒していたように思います。結果球技しか経験できませんでしたがサッカーやバスケは走り回れた、言い換えるとスタンドプレー・・・それが良かったのだろう。野球はというと決して嫌いであったのではありません。自身の根幹は未だに野球で培ったものでできていると思っていますし感謝もしていますし未だに草野球は続けています。ただ幼少期の私には動きが少ない野球は物足りなかったのだと思います。ちなみに野球で自身が一番好きであったプレイがピッチャーと走者でした。こんなことからもお分かり頂けるかと思いますが常に動き回りたかったのだと思います。
子供は興味を持ったことはなんでもやりたいと言います。あれもこれもは無理ですし、飽きたから次は・・・でも困ります。ただ大人の無知からくる「ダメ」は絶対にダメです。親として子供に色々と挑戦をさせてあげる中で高校三年生まで続けられる何かを小学生のうちに一緒に探してあげてほしいと思います。それは書道や公文やピアノ、勉強でもなんでもいいです。親子で取り組めるものがあれば尚いいです。とにかく情熱を注げれるものを見つける。そんな中で子供達がキックボクシングを選択してくれたら嬉しい限りです。
長くなりましたが、「会長の本当になりたかった夢」のお話でした。